番翁のブログ

番翁です 何か書くかもしれません

細々したこと

細々したこと

 

以下に記すものは、細々したことである。

 

・ドイツ語の単語は長すぎて可読性が低い。これは、言語学習者に必ずしもよい影響を与えない。

・人の名前を無許可で使用するのは誉められた行為ではない。人の名前を無許可で使用し、やはり無許可でスベるのは重罪である。

・プロフィールは短い方が良いというのは、全くの誤りである。プロフィールはその人を表す文言であり、情報量が少ないことはその人について不明な点が多いことを表す。これは親切ではない。

・メンマは竹であるが、ラーメンに竹を入れてよいとは誰も言っていない。

・ゾロ目を尊ぶ必然性はどこにもない。4,4,4であろうと、2,3,5であろうと、確率は等しい。無論、サイコロを区別できる眼力を有する必要はある。

・私の椅子は、足が5股に分かれている。棘皮動物かもしれない。

・宗教上の理由と付け加えることで、私がAmong Usを頑なにプレイしない偏屈さが正当化される。これはクラスの円滑な運営になんら影響を及ぼさない。

・ドイツ語キーボードではyとzの位置が全く入れ替わるため、ややこしいことに、「yとz」と入力するのに、側から観ればz,t,o,yと入力しているように見える。もっとややこしいことに、「z,t,o,y」と入力するのに、側からはy,t,o,zと入力しているように見える。

・椅子の足に布状の覆いを被せることで床が傷つくのを保護するという話でお互いの経験を共有し、間を持たせることが可能である。

・夏休みにひとりで旅行をしたいと言ったら両親がやや引いていた。

・恐ろしいことに、このブログは高校の同級生の、誰かの保護者様に監視されている。なお、恐ろしいのは監視そのものではなく、その保護者様が単数とは限らないという事実である。

・いまだにカィラスのカレーが懐かしくなる。

・「気づいたら寝てた」という表現の非論理性を瞬時に指摘できる人間になってしまったことは、嬉しいこととは限らない。この人間性は、いずれ「部屋には誰もいなかった」の論理的誤謬を指摘し始めてしまう。

・旅行をひとりで行うのは、友達と行くか、ひとりで行くかのメリット・デメリットを斟酌しての決断ではなく、単に旅行の目的を共有する友人がいないからである。

・10000時間の法則は誤りである。私はネクタイを4回目くらいから即座に結べるようになった。

・チャーハンを「炒飯」ではなく「チャーハン」と表記するのは、「炊飯」との視認性を考慮しての決定だったと信じている。

・あなたが思うより凡庸です。

インスタ映えする写真も、Twitter映えする写真も撮れず、ただストレージが圧迫されていく。

・「地球が何回まわった時」を人に問うならば、少なくとも回転軸、できれば回転の向きを指定するべきである。これができるようになることが、初等教育中等教育を大きく分ける。

・学食のメリットは、がまんづよさを得ることが2割を占める。

・小学校の教科書に振り仮名を振ることは、児童を甘やかすことにつながるという批判を聞かないのに違和感を覚えたことがない人は多い。私も覚えたことがない。

・「やくすぎて屋久杉になる」を人生で一度は使いたい。

・銃を知らない人は、銃で殴って人を殺す。

利尻島でにんじんしりしりを食べたい。困ったことに、にんじんしりしりは沖縄のもので、利尻島とはおよそ正反対である。

・レゴは資産である。その価値は安定している。

・尖頭器が欲しい人と、戦闘機が欲しい人は、どちらも存在する。

・起きたらベッドが無くなっている可能性は、なくはない。

・起きたら課題が無くなっている可能性は、ない。

 

あとがき <番翁のブランク>

前にブログを書いてから1ヶ月以上が経過していることに気付き、ふとブログの執筆画面を立ち上げたのが午前3時を20分ほどすぎた頃合いだった理由は、番翁がこの時間までうだうだとドイツ語のDialogを覚えていたからに他ならない。本来であれば、ここでいう本来とは、すなわちTwitterYoutubeのことであるが、こんな暗記はとうの昔に終わらせていなければならないはずだった。しかし遅くなっても暗記はせねばならぬから、眠気と、実況動画の誘惑を涙をのんで断ち切り、このような時間まで暗記を続けてきたわけである。無論、ブログを書いているからには、暗記はひと段落ついたものと思っていただいてそこまで差し支えはない。

 

1ヶ月のうちにはいろいろなことが起こったが、あまりにもいろいろであるため、ここで全てを挙げ切ることはできない。クラスに、なぜか5,6人ほどいたツイッタラーとだいたいFFになったのは4月下旬だった。木製の、親の仇みたいに硬い丸椅子が、背もたれのついた柔らかいオフィスチェアに取って代わられたのは4月の末だった。実家からレゴが到着し、それなりに整理がついたのはゴールデン・ウィークが明けた頃だった。

 

とにかく、生活にひと段落がついたわけである。生活にひと段落ついた結果、いかなる変化が番翁の元に訪れたか。

 

番翁の文体が丸くなったのである。驚くなかれ、私自身が一番驚いている。このブログの冒頭を何遍も読み返してみればわかることだが、番翁の文体がすっかり鳴りを潜め、これでは全く普通のブログに成り下がってしまうではないか。あの、長い長い長い長い一文と、くどいくどいくどいくどい表現はどこへ行ってしまったのか。どこかへ行ってしまったとして、なぜ行ってしまったのか。行った結果、ブログの質は向上したのか。私自身これらの問いに答え切れるかは未知数であり、その理由こそまさに、私がこの文章を今思いつきで書き進めているからに他ならない。

 

もしこれが番翁のブログを見る最初の体験であるという方がいらっしゃるとすれば、そのいらっしゃるところの方は、私の過去のブログ、特にクソ受験体験記か理三面接体験記(笑)のいずれかを読まれたい。

 

mononobenome.hatenablog.com

 

 

mononobenome.hatenablog.com

 

前者の方が読みにくいという評判で知られており、後者は比較的おとなしく、またそれなりに評判があったという点で言えば"良い"ブログなのかもしれないが、そんなものは読者個人の判断に任せるべきであって、世間はおろか、私ですら評価を確定させるべきでは露程もない。

 

さて消えた私の文体の行手をどこに求めるかは、おそらく先程の段落である程度復活を遂げたものと見て問題ないだろうというのが現在の私の大まかな見解であり、そして段落を経るごとに読みづらさが指数関数的に増加しているという、事実と見て間違いないであろう私自身の価値判断も、なかなか楽しいことになってきており、このまま進めばいつも通りに戻るだろうと予測を立ててはいるが、現状が今後も継続すると、先程の問いに答えられないままブログが終わってしまうので、仕方がないから答えを優先的に探し求めていく方向性でキーボードを叩いていくことにする。

 

なぜ文体が丸くなったか、いや、正確に言えばなぜ文体が丸くなっていたか、これについては単純にブランクの存在を原因として指摘することがおおよそ可能であり、そしてその指摘は、おおよそ正確な指摘だと見て良いだろう。ただこればかりが原因の全てを占めていると考えるのは些か誤謬を含むものであるとも思われる。すなわち、このブログ記事を見る行為を始めてのものとする読者がそれなりに存在することを想定した、ある意味では自己保身と言える、そういう類の行為が無自我的に働いた可能性は否定できないし、これもまた大きな意味を持っていたと考えられるに足る根拠がある。直截的に言えば、同じクラスのひとびとに、いきなり番翁のよくわからない文体を見せびらかすことで、番翁のクラス内での立ち位置を微妙なものとすることに残念ながら成功してしまうことを防ごうという、無意識的な努力の成果がこの文体の変化そのものに表れていたと指摘できるのである。尤も、この涙ぐましい努力も、すでに立ち位置が微妙である可能性を否定できない時点で、やはり無駄に終わってしまったものと判定できる可能性が非常に高いことは特記しておくべきであろう。もはやこんな文章を1つ見せびらかしたところで、さして番翁の評価は変化し得ないところにまで来ているのである。好ましいことでは、ない。

 

さて最後の問いに答えねばならぬ。文体の変化は、ブログの質を向上させたか。これに応えることは、私自身が何より書き手であり、質を判定する人間は書き手自身ではあり得ず、ひとえに読者たる存在にしか判定を行えないという点で、ここに答えを書き記し公開する行為はなんらの進捗も産み得ない。よって、各人が心の中に思うことを、なんらかの手段で番翁に伝えていただければ幸いであるが、もしその思うことが、番翁のブログに対しなんらかの方向性でもってネガチブな印象をもたらすものであれば、その思うことは各人の心の中に留めておかれたい。無理に私の心を傷つける必要性は、全くもって存在しない。