番翁のブログ

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理三面接体験記(笑)

導入の経緯などは依然として不明ではある、いや単に私が無知なだけなのかもしれないのだが、東京大学理科三類には面接試験がある。ことになっている。と私は聞いていた。というかあった。ある。受けた。受けたのだからあるに決まっている。

 

ネットで調べるとそれなりに情報が出てこないこともないのだが、どうも個別具体的な質問の事例の羅列ばかりで、まあそれで十分役に立つと言われればハァそうですかと言ってここでこの文章を止めなければならないのだが、しかしそうばかりもしていられないので、特に理三を受ける予定のない人にもある程度わかりやすく何が起こったかを記しておくことにしようと思う。幾分価値もあるだろうと思われないこともない。面白いかどうかは知らない。備忘録としての意義もあるのかもしれない。

 

よく言われるのは、やれ「世間話みたいな」とか、やれ「優しく続きを促してくれる」とか、なんとかまぁ穏やかな印象を与えるような感想の数々であって、私もそれを鵜呑みにしていたから、別に鵜呑みにして少なくとも損はしなかったし別にいいのだが、あまり正確な描写ではないような気もする。そもそも、面接の記録としては面接中の記録だけをただ羅列するだけではいかんだろう、話をどこから始めるかはやはり悩ましいが、まさか受験票が送られてきたところから始めるわけにもいかない(これは純粋に書き手の気力の問題である)ので、面接当日の朝くらいから記述を始める。

 

ところで、面接は、受験番号の順に4等分されるグループごとに集合時間と場所が決まっていて、受験番号を二分した前半が午前9時ごろ、後半が13時ごろに本郷キャンパスの医学部棟らへんに集合した。制服がないからスーツを着ていかねばならない。わざわざスーツケースにスーツを詰め込み、これが本当のスーツケースだななどと訳のわからないことを考えながら家から持ってきたわけだが、そのスーツを取り出し、なんとか着て会場へ向かう。正門前で友達何人かと出会い、医療問題について聞かれれば「ケアの論理*1」とかなんとか言っておけばいいだろうなどという楽観的な会話をしていたら集合場所に着いた。すでに人は集まっており、しばらくして建物内の集合場所に入れるようになったのでとりあえず友達と別れて部屋に入る。

 

部屋はいかにも大学の講義室という、よくもこんな急斜面に椅子を並べたなという趣の部屋であった。ただそこまで大きい部屋ではなかったから、感染症対策のために席を離して座ればほぼいっぱいとなるような状況で、前方にプロジェクターで注意書きが投影されていた。面接が終了するまで外部との連絡は禁止、スマホや携帯・スマートウォッチは電源を切って身につけずカバンなどにしまう、面接時間中はメモを取るのは禁止、待合室では私語は禁止、書籍などを読むのは可……などと注意事項が羅列されており、読みづれえなこれはなんだなどと思っていたら呼び出し時間の予定も書いてあった。一度に呼ばれるのは8人(これは、もうひとつのグループでは7人だったらしい、面接室の数によると思われる)、時間の間隔はだいたい14分で、1回だけ30分近い間隔が空いていたがおそらく面接官の休憩だろう、知らんけどまぁよい。ちなみに私の集団は80人前後であったから運が悪いと3時間以上部屋で待たされることになる。これに関しては多くの人が事前に知っていたためか書籍を持参している様子が観察された、されたのだが、そのうちかなり多くの人が面接対策、それも医学部面接対策の本を熟読しているのには驚き呆れた。私の前の人もそのような感じの本を読んでいて、なんだか恐ろしくなってきたが今更どうしようもないので観念して、とりあえず持参した日本史の本を取り出して読んではみたがいかんせん内容があまり興味のない分野でかなり辟易した。辟易しながらひたすら空虚に耐えようとしたところ大学のスタッフが何かしらを言い始めた。どうやら受付時間が終わって案内が始まるらしい。

 

この時刻に遅れると遅刻扱いされるようだが、遅刻してきた者は見られなかったので遅刻するとどうなるかは未だ知らない。案内された内容は前に投影されている箇条書きとほぼ同一であった。余談であるが、スタッフは3人とも女性で、筆記試験の時の試験官が6人(1日につき3人かける2日)とも男性であったのとは対照的だななどと思っていたが、よく考えれば自分が見た試験官など大多数のうちのごく一部でしかないのだからあまりたいそうなことは言わないでおくべきなのだろう。意図的なものかあるいは偶然の産物であるかはやはりわからない。もうひとつのグループの部屋にいたスタッフのことも知らないし。

 

ここからは空虚との戦いが始まる。すぐに呼ばれる人ならばいいが私はかなり待たされた。日本史の本をパラパラとめくりながら、神田青物市場がどうとか下総の薩摩芋栽培がどうとかいう話を目から流し込み、空腹に耐え、ひたすらぢっと椅子に座り続けた。14分おきに8人、ちょうどこれが横一列に座っている人数なのだが、が呼ばれて扉の外に消えていく。この部屋にはもう戻ってこないようで全ての荷物を持って出ていくから、だんだん部屋の前方から人が消えていく(座席は番号順であった)。ついでにお手洗いに行きたい人が引率されて出ていく。割と行く人は多い。

 

そうこうしているうちに自分の3個前の列が出て行き、2個前の列が出て行き、なんだか処刑を目前に控えた気分になってなかなか恐ろしくなっていると、前の列の人々が呼ばれ、前に座っていた人が席を立って座面を動かしたところ、窮屈すぎて伸ばしていた私の足が挟まれた。痛くはないから声も出せないし、かといって私語はしてはいけないし、私の足が邪魔になって座面は元の位置に戻らないし、どうしようもない状況になるので足を抜こうと力を入れてみたが前の人も座面を動かすから余計に挟まれた。これは敵わん、何より「ごめんなさい足伸ばして挟まれました」というのはなにか著しく尊厳が失われる気がして、いや尊厳があるかはここで大事ではないのだが、とにかく嫌だったから5秒ほど粘ったら足が抜けた。助かった。ここで助かったのは私の尊厳か、あるいは無事に面接が受けれるという安堵かどちらかはよくわからない。

 

それから14分がきっかり経過して私の番となった。投影されていた「予定スケジュール」はほぼ全く遅れも前倒しもなく進行していたから、特にトラブルはなかったのだろう。荷物とコートと、いつでも出せるようにと言われていた受験票を手に持って外に出る。外に出て、コートを着てこなかったことを後悔し、それでもまぁすぐに案内されるだろうと高をくくっていたら受験番号を確認された後しばらくお待ちくださいと言われて、待機室の前のよくわからない空間で待ちが発生した。なぜここで待たされるのか、何を待っているのかは結局よくわからず、そもそもここは何なのかと考えだすと周りを無造作に通っている金属製のパイプの数々が気になって、気になってはいるがそれより寒さが身に堪えるので若干震えて、それから面接の緊張もあったから落ち着こう落ち着こうと心の中で般若心経を唱えると無苦集滅道のくだりまで到達したところでそれではご案内しますと宣告された。最後まで唱えさせろと若干腹立たしくもあったが反抗するわけにもいかず後をついていく。

 

後をついていくと何やら細長い、あまり心地のよくない廊下を歩かされ、突き当りを左折すると執行部どうたらこうたら立入禁止と書かれた看板があってその立入禁止エリアにずんずん入っていく。なんだこれは、と思っていると右手に部屋が並んでいる。ひとつめの部屋には客員教授室の札が下がっていた。次の部屋との間に柱があって、そこに風景写真がかかっていた。ちょうどその左手には白黒の古そうな写真がかかっていて、ちらっと見てみるとこの医学部(あるいはその元となった組織)の昔の、明治期ごろの写真がかかっていた。ここは関係者以外立入禁止のはずだから誰に見せるものかはよくわからないと思いながら先に進むと次の部屋には運営戦略室とあった。そしてまた風景写真と白黒写真があって、次の部屋に連携調整室、連携調整室ってなんだよ連携を調整するためにひと部屋使うのかよ大変な連携だなと思っていたらその次の部屋に医学部長室と書いてあった。こんなところ通っていいのかよと思いながら、あとついでにさっきの写真は医学部長が見るものなのかなと思いながら廊下を抜けると古めかしい石造螺旋階段があらわれ、上部にいろいろと書いてあるのを見れば「電子顕微鏡室 コンフアレンス室」と行先案内がある。電子顕微鏡とは程遠い古めかしさと、コンフアレンスがカンファレンスだと気づくのに時間がかかったことに怯えながらその螺旋階段を下に向かうと、第一印象が地下牢だった空間にたどり着いた。天井には金属製のパイプが何本も走り、なんだか薄暗いほどでもないが薄暗く、地下だから窓もなく、無機質な電灯の明かりと古そうな壁の醸し出す雰囲気が完全に地下牢のそれと一致している。左側には部屋が8つ並んでおり、その向かい側に椅子が置かれてあってひとりずつ椅子に案内される。部屋はアルファベットでH〜Oと書いてあった。ちょうど目の前の壁に何か注意書きの書いてある紙が貼ってあったから読んでいると、右のほうから女性のスタッフが歩いてきて、各受験者に前の張り紙を読んでくださいと言っている。なるほど、と思ってこれ見よがしに食い入るように注意書きを読んでいるとスルーされた。当たり前かもしれない。ちなみに注意書きには、面接官が呼び入れるから、呼ばれたら全ての荷物を持って手指消毒をしてから入室してください旨が書かれていた。

 

そういえば、部屋のドアに「SB05」「PBL12」とプレートがついていた。何の番号かはわからない。そもそもSBがなんであるか、PBLとはなんであるかもよくわからない。Sonic Boomであるかなどとよくわからない想像を巡らせたところでふと右の部屋のドアを見ると「SB06」「PBL11」と書いてあった。昇順と降順逆なんかい、と思いながら、しかしそれでも番号の意味はよくわからないままで、そもそもなぜこんな地下に同質な部屋が8個も並んでいるのかもよくわからない。じっとしていても答えは降りてこないから諦めて般若心経を心の中で唱えていた。

 

どうやら前に呼ばれた人々はまだ面接中であるらしく、周りの部屋からもポツポツと受験生が出てくる。そうこうしているうちに全ての部屋から受験生が出てきたので、男性のスタッフ3人がそれぞれの部屋を巡ってなにか確認していた。何をしているのだろうかと思っているうちに、右の部屋のドアがぬっと空いて〇〇さんと名前が呼ばれて、右の受験生が手指消毒をしてから入っていった。ドアは面接官が開けてくれるので、なるほど自分でノックして入るのではないのだな、と思っていると自分の目の前のドアも開き、どうぞと言われたのでコートを持ち、カバンを持ち、受験票を持って、手指消毒をし、中に入ろうとするとドアが閉じられた。なんだこの仕打ちはなどと思いながら、コートとカバンと受験票のせいで両手がふさがっているし、ノックもせずに入るのは不躾だろうと思って、仕方がないのでカバンを下においてノックを3回する。中からくぐもった何か音声らしきものが聞こえてきたのでどうぞと言われたのだろうと判断して入室し、ドアを閉め、右側に病院でおいてあるベッドのようなものが2つ並べて置いてあり、これはなんだと思っていると荷物置き場と書いてあったからコートとカバンと受験票を置き、椅子の横に向かおうとしたところで受験番号と名前を言ってくださいと言われた。とりあえず受験番号と名前をゆっくり、気持ち大きな声で述べるとどうぞと言われたので失礼しますと言って着席する。椅子は回転するタイプで、座面がふかふかしたものであった。パイプ椅子を想定していたから少し嬉しかった。

 

面接官は男性3人で、医学部の所属かどうかは判別がつかなかった。まず中央の男性がこれから面接を始めます、もし答えづらい質問があった場合は遠慮なくおっしゃってくださいというようなことを告げた。なるほどこういうところに気を遣わないといけないのかと思っていると、その男性がまず医学部を志望した理由を教えてくださいと質問してきた。これは私も想定済みであったため、出願時に提出した200字作文と同じような内容を答えると、それがどう医学と繋がるのか、とやや厳しい質問が続いたのでなんとか取り繕うと意外とあっさり納得した、いや納得したかどうかはわからないがとにかくその話題は終了した。ちなみに面接官の机には青い紙(200字作文と思われる)が見えたほか、顔写真のようなものがある紙も見えたため調査書含む出願書類の一部が手元にあるものと推察される。

 

次に、向かって右の男性が「中学から?」と聞いてきた。私が聞き逃したか、それとも単に「中学から?」と聞いてきたのかは判然としないが、とにかくよくわからなかったので聞き直すと「灘は中学から?」とある。なるほどそういう意味か、言われてみれば調査書は高校のものだから中学から入ってきたかどうかはわからないもんな、それにしたって中学からと高校からの2つがあることはやはり有名なのかそれも灘校だからなのだろうかと思いつつ、はい、と答えるとどんな部活に入っていたのかと聞く。それは果たして中学からであることと関係はあるのだろうか、多分ないだろうから純粋に中学から入ったことはそれはその事実自体を聞きたかったのだろうか。とにかく、地理歴史研究部とレゴ同好会に所属していましたと答えると、案の定、いや狙ったようなものだが、レゴ、珍しいね、どんなことをしていたのと聞かれる。ここのあたりの会話は丁寧語ではなく口語、適切な場所と適切な服装であればもはや雑談にほど近いような雰囲気で進行するが、やはりここは地下牢で私はスーツを着ているし何より入学試験の一部だから緊張はする。とりあえず活動内容を説明し、部員の数を聞かれて30〜40と答えると多いねと笑顔を浮かべられた。まとまって活動するの大変じゃないの、はい、確かに統率は難しいですがなんとか頑張りました、大きい作品も作るの、3mくらいのものもあります、すごいねぇ、などとやりとりをしたところで質問者が左の男性に変わった。日本史とか、神社仏閣も好きだったみたいだね、と言われて、いやなんでそれを知ってるんだ、あぁ調査書と土曜講座レポート(これは大学側にタイトルが伝達されるもので、高校で書かされるレポートである)の内容でわかるのか、これはなぜ文系じゃなくて理系なのかを聞かれるやつか、と思って身構えていたら、どんなところが面白いの、と聞いてきたので、うわこれは難しい質問だなと思いつつなんとか答える。へぇ、一次試験で日本史を選択したのもそういうこと?と聞かれて、はいそうですと答えた。そんなところまで見てるのかと内心驚いていると、さっき地歴に入ってたって言ってたよね、どんな活動をしているの、はい、巡検と言って各地に日本史の勉強をしに行っていました、それは何人くらいで行くの、私の高校は文系が少ないので10人弱くらいですかね、と答えたらなぜかウケた。

 

これで終わりかと思うと、修学旅行委員長とか卒業アルバム委員長もやってたみたいだね、大変じゃないの、と聞かれる。そんなところ見るのか、ということはその手元にあるのは調査書だな、と思いつつ大変でしたと答え、さらにどんなところが大変?と聞かれて、担当教師の仕事が遅かったんですよと言おうとして、いや流石に心証悪すぎるな、と慌てて、かといってその時にはすでに「担当教員の連絡が遅く」まで口をついて出ていたから急旋回して「自分で調整しなければいけませんでした」として不時着に成功する。すると右側の男性が、ほう、ところで卒業アルバムって今も本なの?と聞いてきたので、質問の意図がわからず、はい、大きめの冊子です、と答えながらもキョトンとしていると面接官どうしで「データじゃないの」みたいなことを言い合っている。データではないです、と答えておいた。

 

以上で面接は終了になります、と左端の男性が言う。えっらい中途半端なタイミングで終わるなと思いつつありがとうございました、と言って荷物を持って部屋を後にすると男性のスタッフに声をかけられて廊下の端の方の椅子に案内される。すでに同じ列の人々は多くがそこにいて、どうやら私の面接は長い方だったらしいと気付いた。具体的に何分かは把握していないが、体感はあっという間、実際のところ10分もなかったと思われる。全員が揃い、面接前に見たスタッフによる各部屋の謎の確認が終了した段階で案内しますと言われて行きに来た道を引き返す。医学部長室、連携調整室、運営戦略室の横も通った。そういえば連携調整は運営戦略ではないのだななどと本当にどうでもいいことを想像していると建物の入口に到達し、以上で全て終了ですお疲れ様でした、と言われた。やったぁ、これで解放だ、とそのまま外に出て、これでようやく面接が終わった。大学構内に入ってから4時間弱が経過しており、疲れた疲れたと思いつつTwitterを開く。それからメモ帳も開いて今しがた見てきたことを忘れないように書きつけておいた。だいたい概要はこんなものであろう。

 

思ったより長文にできた。備忘録としては優秀な部類かもしれないが、よくわからない。

 

 

 

 追記 2020/02/28/19:33:50 軽微な修正

 

 

 

 

*1:東大国語'21第1問参照